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ま、一生に一回ってのは大袈裟かもしれないが、そう言う縁を大事にするか疎かにするかで、その後の人生を大きく変えると言う事だって有るって事です。
ちょっと長い話になります。
もう13年も前の話になりますが、当時、僕はコンピュータの専門学校に行っていました。
「学歴社会」と言われていた頃ではありますが、「能力主義」の社会になる事を信じて就職活動をしていた頃です。バブル全盛期とも言いますが。
学校に来ている求人票の中に、ある会社が目にとまりました。仮にN社としましょうか。
基本給も良く家からも近いという好条件だったのですが、気になる一文が・・・・
「大卒以上」
「やっぱり学歴かい!」と思いつつも、求人票が来てるくらいだから、可能性ゼロではないのでは? と言う淡い期待と共に、友人3人と会社訪問に行きました。
その時、適性検査をされ、僕だけが合格し、1次試験の案内がハガキで来ました。
そして、1次試験に行って来ました。これも合格し、合格者だけが2次試験の面接に進めたのです。
この間、3ヶ月くらい掛かっただろうか? 2次試験をクリアすれば内定という所まで来ていたので、他の会社は回ってなかったんですよ。
全く行ってなかったわけでは無いのだけど、その頃には、その会社が本命になってたんで他はあまり見てなかったんです。
そして、数日後出ました。結果が。
不合格です。
理由:ウチは大卒しか採りません。
んだとぉ〜!おるらぁ〜! さんざん引っ張り回して、オチがそれかい! ざけんなよ! 「大卒しか」採らんのやったら何で最初に切らんねん!
お陰で残ってる会社、無いやんけ!
12月の事でした。(T−T)
流石にクラス担任の先生も同情してくれたのか、知り合いの行ってる会社ってのを紹介してくれました。
結局、そのF社(今は社名変更してI社)に入社しました。
この会社、本業は図面屋で、従業員数約200名。しかし・・・・プログラムの仕事をしているのは10名にも満たない、ちっぽけな会社です。
しかし、ココで知り合った先輩K氏が、僕の運命を変える事になろうとは、その時は思いもよりませんでした。
(※K氏のWebサイト:Gomazil CLUB!)
入社後、2年くらいは自分の会社に居たのですが、その後、出向で計測屋の会社に2年ほど行きました。
「おかしい、プログラマのはずなのに、何で現場で油にまみれて汗だくになってケーブル担いでんだ?」
そんな思いを胸に毎日仕事してました。
そして、運命の時。
それは祖父が亡くなった日、通夜の準備をしていた時、K氏が我が家に来たんですよ。
「ちょっと話・・・・と言うか相談がある」と。
両親の許可を得てK氏と外食しながら話をすることに。
その内容とは、
ヘッドハンティングの話だった。
コンピュータ会社(C社)からK氏に話が有ったらしいのだが、彼は「自分のレベルを考えると着いていけるのかどうか分からないし、一人だと不安なんで誰かと一緒なら考えても良い」という感じの返事をしたらしく、その誰かが僕だったというわけだ。
僕は二つ返事で「OK!その話乗った!」
半年後、僕はその会社で働く事になる。
残念ながらK氏は抱えていた仕事の切れが悪く、会社を辞める事は出来ませんでしたが・・・・(^^;;
しかし、そのC社も結局7年くらいで辞める事になったのですけどね。ま、理由は単純で、社長の存在とやり方が気に入らなかったんです。
プログラマを10年以上やってきた僕と、大卒の新入社員の基本給が1万しか差がなかった。
「俺の10年は1万かよ!」(※注:心の叫び)
そんな訳で、そこも辞めたわけですが、僕が辞める半年前に、元々ヘッドハンティングの話を持ってきたC社の課長(S氏)も社長と喧嘩して、そこを辞めてたんですね。
S氏は営業能力には長けているがコンピュータの技術はさっぱり(電器は得意)なのに対し、僕は営業能力は劣るが技術は持っている。そんな二人が一つになって会社を興しました。
会社を興したと言っても、元々幽霊会社みたいになりかけていた会社の社長(市議会議員)と、S氏が知り合いだった関係で「そう言う話なら、ウチの会社使えば良いよ」と言う話になり、譲り受けるような形で「株式会社」として看板を挙げる事が出来たんです。
当初、元々居た社員と合わせても6、7人程度の会社だったのが、1年後の今では19人ほどに拡大し、新事業所を開設するに至った。これもS氏の営業能力と、人の繋がりの賜である。
今では、ん千万と言うような案件が次から次へと出てくると言う、1年前までは・・・いや、C社に居たのでは経験出来なかったような、ましてや最初のF社では一生かかっても巡り会えないような仕事を出来る環境になった。
しかし、それも元を辿れば、C社に行ったから、その課長と出会え、そしてC社に行くきっかけはF社のK氏と出会えたからだ。
さらに言えば、F社に行ってなかったら、今の僕は無かったかも知れない。
そんなK氏も、15年勤めたF社を辞め、この6月からウチの社員です。
仕事面でも、そうだがプライベートでも貴重な巡り合わせって有ったんですよ。
ジムカーナの話なんですけどね。
1992年初夏の頃、それまで世話になっていたショップP社から、別のショップB社へ乗り換えるきっかけとなった出来事が。
当時、まだライセンスは取得していませんでした。ただ、近々ライセンス取得しようと思っていた矢先、いつも世話になっていたショップP社で、B社が草ジムカーナをやっているという情報を入手。
早速、出てみようと思い、申込書を持ってB社へ。
行ってみると、いかにもレース屋と言った感じのお店にちょっとドキドキしながら入っていくと、社長と奥さんにメカニックが1名と言う感じの、実にアットホームな感じのお店だった。
で、申し込みを済ませ、しばし社長と雑談。
その時、
僕:そろそろライセンス取ろう思ってるんですよ。
社長:ライセンス取って、本気でF地区戦を追いかけるなら、タイヤのサポートしてあげるよ。
僕:え?・・・・・・そ、それは、もう、是非! やるからには本気でやりますんで。
こうして、そのB社を離れる事になるまでの5年半、Sタイヤに掛かる費用はほぼゼロでした。
そのお陰で、最初の2、3年はタイヤを気にせず練習する事が出来た。その甲斐あって、94年の岡山・福山シリーズチャンピオンを取る事が出来たと言っても過言ではないでしょう。
結局、ココも社長に問題があると言うのと、僕のマシンをメンテしてくれていた従業員が居なくなったので、タイヤを諦めて、今のK-Factory
に移籍する事になった。
そうは言っても、B社でのサポートが無かったら今の自分は無かったかも知れない。
因みに、K-Factory の社長は、元B社の従業員で、社長と喧嘩してB社を辞め、独立して自分の店を出した人です。
人生には何度となく転機が訪れます。そして、そう言うチャンスは待ってたって来ないし、チャンスが来てもそれを生かせるかどうかは、その瞬間に即判断し行動すると言う行動力がなければチャンスは逃げていきます。又、それがチャンスかどうかを見極める判断力も大事でしょう。
でも、もっと大事なのは、そう言ったチャンスと巡り会える確率を引き上げてくれる「人と人の繋がり」でしょう。
一期一会
改めて、その意味を噛みしめる今日この頃である。